2025年理事長年頭所感

  障害者福祉の分野において昨年一番特筆すべきことは、最高裁において旧優生保護法(以下「保護法」と記す)は憲法違反であるとし、国に損害賠償を命ずる判決が出されたことである。本判決は、保護法は憲法13条及び141項に反しており立法自体が違憲であったという、かなり踏み込んだ判断を司法が示したものである。更に被告である国が主張する「除斥期間」を避けたことも画期的であったと思う。この結果、国は損害賠償を行うとともに岸田前総理は保護法の被害者と直に面会し、謝罪を行うとともに障害者差別根絶ための行動計画案を作成することを表明した。

 1980年頃障害者の自立支援運動に関わっていた時、千葉県内の身体障害者療護施設を飛び出し、地域での自立生活に取り組んでいた重度の身体障害を持つAさんと知り合った。彼女は施設で断種を強制され、「皆しているから」「拒否すれば施設にはいられない」と言われ、他の利用者とともに避妊手術を受けた。数年後、仲間とともに施設を飛び出し地域生活を送る中で支援者の一人と恋愛関係となった。しかし彼女には大きな悩みがあった。卵巣を摘出したばかりにホルモンバランスが崩れ、女として特性を失っていった。声は男のようにガラガラ声になり、体からは徐々にふくよかさが失われた。そして何よりも結婚しても子供が作れないという現実を突きつけられた。彼女は手術を受け入れたこと悔やみ、また保護法の非人道性を折につけ訴えていた。

 当時は重度障害者への避妊手術は何の疑問もなく行われていた。Aさんの事例だけではなく、私がボランティア活動をしていたB療養所の筋ジストロフィー患者の中でも、女性は避妊手術をされるという噂が公然と広まっていた。断種が正当化された理由はいくつかあった。例えば、優勢思想に基づく悪い遺伝子は排除さればならないという考え。障害者は経済的には生きる価値のない人間であり、障害者の遺伝が連鎖し障害者排出され続ければ国家の負担となる。障害者は結婚も出来ないし、まして子供は育てられないから生殖器は必要でない。知的障害者は性に関する知識が無いから妊娠する危険性が高い。更には生理の始末が出来ない女性障害者は親や施設職員等の介護者の負担を増す・・・、等々イデオロギー、経済、介護等の様々な観点からの理由付けがなされていたのである。

 今回の最高裁判決はこれらすべての理由付けを一蹴するものであり、強者(マジョリティ)による人権論ではなく、弱者(マイノリティ)を含めた全国民に平等に普遍的に与えられた人権論に依拠して判決を出したのであり、障害者の人権擁護がようやくここまで来たという思いが生じた。しかしながら私にはある疑問が残っている。それは障害者に対するこのような非人道的断種施策が長きに亘って行われてきた責任はどこにあるかということである。判決は違憲な法律を作り長きに亘りこの法律に基づいた施策を行ってきたことを糾弾し、「除斥期間」をも排除し国に損害賠償を命じたが、果たして責任を負うべきは国だけなのだろうかという疑問である。確かに第一義的にはこのような非人道的な法律を作りそれを長期間施行してきた責任は国にあると思う。しかしながら国の力だけでは施策は進行出来ない。それを具現化するための実行者等がいなければ法律は絵に描いた餅であり実効性を持たない。例えば断種のための避妊手術を行うには、それに協力する施設職員や医師がいなければ行うことは不可能である。施設(施設職員)が避妊手術を行うべき障害者を選別し、対象者を言いくるめ、あるいは重度知的障害者であれば何も告げずに病院(医師)の手に委ねる。医師は何の疑問も持たずに粛々と手術をし、それで全てが終わるという図式があった。そのように考えると国だけが損害賠償の対象とするのは一面的であると思われる。実際に現場でそれを遂行した人々の責任を問わなければ、保護法での非人道的処置は自分たちのことと考えられないのではないかと思う。

 戦前のナチスドイツの時代においても、「断種法」更には「障害者安楽死計画(T4作戦)」により数十万人の障害児者が断種手術を強要されたり虐殺された。その実行犯は医師であり施設職員であった。国はホロコーストの被害者であったユダヤ人に対して、国家による賠償を行ったが断種の被害者には国家賠償はなされていない。ましては極一部の極めて残虐な行為を行った者以外は、実行者としての責任は問われることもなった。彼らは国の命令により行ったこととしてその責任を回避し、戦後も変わらず医師として施設職員として働き続けた。1980年以降実行者の責任を問う声も上がっているがそれはまだ不十分である。

 実行者の責任を問うことは極めて難しい問題あると思うがあえてそれを問いたいのは、妊婦に対する出生前検診のビジネス化、精神障害者の社会的入院(長期入院)の放置、医療的ケア児の増加、ゲノム編集による遺伝子改変等が進んでおり、命や生きることの選別が進んでいるからである。そして身近な問題で言えば障害者施策は益々成果主義が進み、その枠からもれた障害者への処遇は停滞している。

 強者による社会の動きへの同調や行政施策の鵜呑みを施設職員が行っていけば、保護法以上の第二の悲劇が障害者にもたらされかねないとの思いが生じている。障害者福祉に携わる者として、保護法の判決を契機に様々な施策の実行者としての立場を常に意識し、我々が悲劇の片棒を被かないようしっかりとした障害者福祉理念を形成し実践に臨むことが必要であると思う。

 

 202511

                      社会福祉法人オリーブの樹

                        理事長  加藤 裕二